索 引
※テレビで解説させて頂いた時点よりも現在では新たな情報が分かってきました。以下の解説では、当時は知り得なかった情報も交えて解説します。後知恵の面がある点はお許しください。
1. 2012年2月22日、テレビで解説する機会を頂きました
2012年2月22日、関西テレビの夕方ニュース番組「スーパーニュースアンカー」に出演し、中国でアップルが巻き込まれた商標権トラブルについて解説する機会をいただきました。
当時話題になったのは、あの「iPad」が中国企業の商標権を侵害しているとして、中国の裁判所でアップルが敗訴したというニュースでした。
私がテレビで解説した時点では全体像の情報は手元にありませんでした。アップルがどのような結末を迎えるのか、誰にも予測できない状況だったのです。
あれから十数年が経過しこの事件の全貌が明らかになっています。アップルは6,000万米ドル(当時のレートで約47億円)という和解金を支払い、ようやく「iPad」の商標を手に入れることができました。
グローバル企業の法務チームを擁するアップルが、なぜこれほどまでの代償を払うことになったのか。その背景をお伝えします。
2. なぜアップルのiPadが「商標権侵害」になったのか
多くの方が疑問に思われるでしょう。アップルのiPadは世界的に有名な製品です。それなのに、なぜ中国の企業が「iPadの商標権を持っている」と主張し、アップルに対して使用差止を求めることができたのでしょうか。
この疑問を解くカギは、「商標登録制度」の仕組みにあります。
中国も日本も、商標権は「先に特許庁に出願して登録を受けた者」に与えられるという法制度を採用しています。これを「登録主義」と呼びます。いくら有名なブランドであっても、商標を使用しているだけでは商標権者にはなれないのです。
もし「最初に使用した者が権利者である」という制度だったらどうでしょうか。
「俺が最初にiPadを使った!」「いや、俺の方が先だ!」と、本当の権利者を名乗り出る人が大量に現れ、収拾がつかなくなってしまいます。誰が本当の権利者であるかを決定する手続きが非常に複雑になるため、世界のほとんどの国は「先に特許庁に登録手続きをした者」に権利を与える制度を採用しているのです。
中国で「iPad」の商標を最初に登録したのは誰だったのでしょうか。
それはアップルではなく、台湾系の電子機器メーカー「唯冠(Proview)」グループだったのです。
3. 唯冠グループとは何者だったのか
唯冠グループは、かつてCRT(ブラウン管)モニターの製造で世界トップクラスのシェアを誇っていた台湾系企業でした。
1990年代から2000年代初頭にかけて、同社はパソコン用モニターの大手メーカーとして名を馳せていました。グループの頂点には香港証券取引所に上場する持株会社があり、台湾に開発拠点、中国本土の深センに製造拠点を持つという、典型的な台湾系製造業の構造を有していました。
唯冠は1998年頃、スティーブ・ジョブズがiMacを発表して世界を席巻していたのとほぼ同時期に、「i-Family」と呼ばれるインターネット家電の製品ラインナップを構想していました。その中の製品の一つが「Internet Personal Access Device」、略して「IPAD」だったのです。
唯冠が開発したIPADは、現在のタブレット端末とはまったく異なり、CRTモニターと一体化したデスクトップ型のインターネット端末でした。
「i」で始まる製品名という点では、アップルの製品と共通の時代精神を反映していたと言えるでしょう。唯冠はこの名称を保護するため、2000年から世界各国で商標出願を行いました。
ここでのポイントは、中国本土における商標登録です。2000年1月と9月に、唯冠の深セン子会社「唯冠科技(深セン)有限公司」の名義で商標出願が行われ、2001年に登録が完了しました。
これはアップルがiPadを発表する10年も前のことであり、いわゆる「悪意ある商標の先取り」とは性質が異なる、正当な権利取得だったのです。
4. アップルの「隠密作戦」とその誤算
2009年、アップルはタブレット端末「iPad」の発売準備を進めていました。
スティーブ・ジョブズのこのデバイスにとって、名称の確保は最優先事項でした。世界中で「iPad」の商標を調査したところ、すでに唯冠グループが各国で商標を保有していることが判明したのです。
アップルほどの大企業が自社の名前で商標交渉を行えば、相手側が法外な価格を要求してくることは明らかでした。そこでアップルは、特殊目的事業体を利用した「隠密取得」という戦略を採用しました。英国に「IP Application Development Limited」という会社を用意し、この会社を通じて唯冠との交渉を行ったのです。
2009年8月、この英国法人の代理人は台湾の唯冠電子に接触しました。
「IPADという商標を自社の社名変更のために使用したい」という名目で、世界各国の商標権を一括で買い取りたいと打診したのです。交渉は唯冠グループの会長である楊栄山氏との間で行われました。
ここで、アップル側に重大な見落としがありました。
交渉相手の誤認
まず、交渉相手の認識に問題がありました。アップル側は、台湾の親会社およびグループトップの楊栄山氏と交渉すれば、グループ全体の資産を処分できると考えていました。しかし、中国本土の商標権は台湾法人ではなく、「深セン法人」という別の法人格を持つ会社が保有していたのです。
中国の商標データベースを確認すれば、権利者が誰であるかは一目瞭然だったはずです。しかしアップル側は、台湾側の「グループ全体を代表している」という説明を鵜呑みにしてしまいました。
2009年12月23日、運命の契約が締結されました。唯冠電子(台湾)と英国法人の間で、35,000英ポンド(当時のレートで約55,000米ドル、約500万円程度)という破格の安値で商標譲渡契約が結ばれたのです。契約書には中国本土の商標登録番号も列挙されていました。
契約の欠陥
この契約には致命的な欠陥がありました。商標の法的な所有者である「唯冠科技(深セン)」の社印(公章)が押されておらず、契約当事者としても明記されていなかったのです。
5. iPadの大ヒットと事態の急変
2010年1月、アップルは初代iPadを華々しく発表しました。その直後、アップルは中国商標局に商標の名義変更を申請しましたが、認められませんでした。理由は単純で「譲渡人(台湾法人)と登録名義人(深セン法人)が一致しない」というものでした。
アップルは唯冠に対し、深セン法人の名義変更手続きへの協力を求めました。
この時点でiPadの世界的な大ヒットを目の当たりにした唯冠側は、35,000ポンドという対価があまりにも低すぎると認識し、態度を硬化させました。楊栄山会長は「台湾法人の契約は深セン法人を拘束しない」と主張し始めたのです。
2010年5月、アップルは唯冠科技(深セン)を相手取り、商標権の所有権確認を求めて深セン市中級人民法院に提訴しました。
裁判でアップル側は「表見代理」という法理論を主張しました。
楊栄山氏は唯冠グループ全体の総帥であり、深セン法人の法定代表人でもあるため、彼が台湾法人として契約に署名した際、深セン法人の代理権も有しているような外観を作り出した、したがって契約の効果は深セン法人にも及ぶべきだ、という主張です。
これに対し唯冠側は、中国法の形式主義に基づいて反論しました。
深セン法人は独立した法人格を持ち、親会社であっても勝手に資産を処分することはできない。深セン法人は契約書に署名しておらず、公章も押していない。35,000ポンドは台湾法人の口座に振り込まれており、深セン法人は対価を受け取っていない、と。
6. 私がテレビで解説した「その瞬間」
2011年12月、深セン市中級人民法院は判決を下しました。結果はアップルの全面敗訴でした。裁判所は「商標譲渡契約は英国法人と唯冠電子(台湾)の間で締結されたものであり、唯冠科技(深セン)はその当事者ではない」と判断しました。
この判決を受け、2012年に入ると唯冠側は猛攻勢に出ました。
「アップルのiPad販売は商標権侵害である」として、中国各地の工商行政管理局に行政摘発を申し立てたのです。河北省石家荘市などの一部の都市では、実際に工商局が電気店からiPadを押収する事態が発生しました。
さらに唯冠は、中国税関に対してiPadの輸出差止を申請しました。iPadはフォックスコンの中国工場で製造され、全世界に輸出されています。もし輸出が差し止められれば、中国市場だけでなく、世界中のiPad供給がストップすることになります。これはアップルにとって、販売停止以上の致命的なリスクでした。
私が2012年2月22日に関西テレビで解説を行ったのは、まさにこの緊迫した状況の最中でした。
当時、唯冠側は100億元(約16億ドル、約1,280億円)もの損害賠償をちらつかせ、アップルに強烈な圧力をかけていました。世界中のメディアがこの事件を報じ、アップルの中国ビジネスがどうなるのか、固唾を呑んで見守っていたのです。
7. なぜ唯冠はこれほど強硬だったのか
唯冠側がこれほど強硬な姿勢を取った背景には、同社の絶望的な財務状況がありました。2000年代後半、ディスプレイ市場は急速に液晶へとシフトし、CRTに強みを持っていた唯冠の業績は悪化。2008年のリーマンショックが追い打ちをかけ、資金繰りは急速に悪化していました。
2012年時点で、唯冠科技(深セン)はすでに実質的な破綻状態にあり、中国銀行や民生銀行など複数の金融機関から、合計で約4億ドル(約320億円)もの債務を抱えていました。工場は操業を停止しており、資産価値のあるものは事実上「iPadの商標権」のみでした。
この訴訟の意思決定において、楊栄山個人よりも債権銀行団が強い影響力を持っていたと見られています。彼らにとって、アップルから巨額の賠償金または和解金を引き出すことは、不良債権を回収する数少ない手段だったのです。
8. 47億円の和解という決着
アップルは広東省高級人民法院に控訴しました。
2012年2月から始まった控訴審において、裁判所は単に法的な白黒をつけるのではなく、調停による解決を強く模索し始めました。アップルには商標が必要であり、唯冠(の債権者)には現金が必要である。その構造を理解した裁判所が、実務的な落としどころを探ったのです。
数ヶ月にわたる水面下での激しい交渉の末、2012年7月2日、広東省高級人民法院は両社が和解に達したと発表しました。
和解の内容は、アップルが唯冠科技(深セン)に対し6,000万米ドル(約47億円)を支払い、入金確認後に裁判所が職権で商標権をアップルに移転させるというものでした。
当初、唯冠側は4億ドルを要求し、アップル側は1,600万ドル程度を提示していたとされています。6,000万ドルという金額は、中国における商標権紛争の和解額としては記録的な高額でした。
アップルにとっては、iPadの中国売上がもたらす利益に比べれば、6,000万ドルは「誤差」のような金額でした。ビジネスを継続するための「必要経費」として、合理的な判断だったと言えるでしょう。
一方、和解金6,000万ドルは唯冠の再建資金にはなりませんでした。
この資金は裁判所の管理下で、債権者への返済に充てられました。2012年10月には、深セン法人に対する破産清算が受理され、管理人が指定されました。かつての世界的なモニターメーカーは、皮肉にも自社製品ではなく、他社製品の名前をめぐる訴訟を最後の幕として、解体への道を歩むことになったのです。
9. この事件から得られる教訓
商標登録の専門家として、この事件から得られる教訓は非常に大きいと考えています。
現地の権利関係を徹底的に確認することの重要性です。グローバルな権利譲渡契約を結ぶ際には、各国の商標データベースを確認し、権利者が誰であるかを個別に特定しなければなりません。親会社の意向と、現地法人の法的権限は別物なのです。アップルほどの大企業でさえ、この基本的な確認を怠ったために、47億円もの代償を払うことになりました。
次に、中国法の「形式主義」に対する注意が必要です。欧米の感覚では、グループ会長のサインがあれば子会社を拘束できると考えがちです。しかし中国においては、資産の譲渡には当該資産を保有する法人の「公章」と「法定代表人の署名」が決定的な意味を持ちます。契約は署名者の意図よりも、形式が優先される場合があるのです。
そして、商標は先手を打って確保すべきという原則が重要です。一度商標権を他者に取得されてしまうと、それを取り戻すためには膨大なお金と時間と手間が必要になります。ビジネスを行う際には、先の先まで読んで、先んじて商標登録を終えておくことがキーポイントになります。
私が2012年2月にテレビで解説した時点では、この物語の結末はまだ見えていませんでした。
今、全貌を振り返ることで、商標登録がいかにビジネスにとって重要であるかを、改めて実感しています。アップルですら47億円を支払わざるを得なかったこの事件は、すべてのビジネスパーソンにとっての貴重な教訓として、語り継がれていくことでしょう。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
03-6667-0247
10. 参考文献
本記事は、以下の資料を参照して作成しました。
公的機関・政府系資料
- -中国国家知識産権局(CNIPA)
Apple Settles iPad Trademark Case with $60m
https://english.cnipa.gov.cn/transfer/news/iprspecial/919768.htm
- 香港証券取引所(HKEX)
ANNOUNCEMENT — In relation to the matter of Proview International Holdings Limited (Stock Code: 334) Proceeding to third stage of delisting procedures
https://www.hkex.com.hk/News/News-Release/2011/1112302news?sc_lang=en - 米国特許商標庁(USPTO)審判部資料
ESTTA668953 04/27/2015 IN THE UNITED STATES PATENT AND TRADEMARK OFFICE
https://ttabvue.uspto.gov/ttabvue/ttabvue-91207333-OPP-46.pdf
裁判関連資料
- 香港高等法院判決書
苹果公司等诉唯冠国际控股有限公司等申请禁制令判决
https://www.cpahkltd.com/show-100197.html
学術論文・法律専門誌
- UC Davis Journal of International
Law and Policy IPad Trademark Dispute in China
https://jilp.law.ucdavis.edu/blog/ipad-trademark-dispute-china - ResearchGate
Exploring Apple’s iPad Trademark Blunder: Chinese Trademark Approval Procedure is a Trademark Protection Safeguard or Another National Protectionism
https://www.researchgate.net/publication/256029536_Exploring_Apple’s_iPad_Trademark_Blunder_Chinese_Trademark_Approval_Procedure_is_a_Trademark_Protection_Safeguard_or_Another_National_Protectionism
法律事務所・専門家による解説
- Winkler Partners
Taiwanese lessons from Apple v. Proview
https://winklerpartners.com/taiwanese-lessons-from-apple-v-proview/ - China IP Lawyer
Shenzhen company won the lawsuit of iPad trademark against Apple
https://www.ciplawyer.com/articles/135779.html - China Briefing
US$60 Million Settlement Clinches iPad Trademark for Apple
https://www.china-briefing.com/news/us60-million-settlement-clinches-ipad-trademark-fight/ - Flatfee Corp
What Can Foreign Companies Learn From the Apple Inc. vs Proview Technology (Shenzhen) 2010 Trademark Lawsuit
https://flatfeecorp.com/articles/apple-versus-proview-2010-trademark-lawsuit-china/ - Cohen IP Law Group
Ipad Chinese Proview v. Apple Trademark Update
https://patentlawip.com/blog/ipad-chinese-proview-v-apple-trademark-update/ - The Global Legal Post
Law firm iPad claim winner sues Proview
https://www.globallegalpost.com/news/law-firm-ipad-claim-winner-sues-proview- - IP Dragon
iPad商標紛争関連記事
http://www.ipdragon.org/page/3/
報道機関
- Al Jazeera
Apple settles Chinese trademark row over iPad (2012年7月2日)
https://www.aljazeera.com/news/2012/7/2/apple-settles-chinese-trademark-row-over-ipad - The Guardian
Apple pays $60m to settle iPad dispute in China (2012年7月2日)
https://www.theguardian.com/technology/2012/jul/02/apple-settle-ipad-dispute-china
CNET
- Paperwork from Chinese iPad trademark sale emerges
https://www.cnet.com/culture/paperwork-from-chinese-ipad-trademark-sale-emerges/ - Apple, Proview battling over price to settle iPad trademark fight
https://www.cnet.com/tech/tech-industry/apple-proview-battling-over-price-to-settle-ipad-trademark-fight/ - ZDNET
pple vs. Proview: What happened so far, and what next?
https://www.zdnet.com/article/apple-vs-proview-what-happened-so-far-and-what-next/ - techPowerUp
Apple Suffers Setback in iPad Brand Name Dispute with Proview in Chinese Court
https://www.techpowerup.com/156360/apple-suffers-setback-in-ipad-brand-name-dispute-with-proview-in-chinese-court?cp=2 - CIO
Apple Pays for iPad Trademark in China – Again
https://www.cio.com/article/296431/intellectual-property-apple-pays-for-ipad-trademark-in-china-150-again.html
その他参考資料
- Tolfin(金融情報)
PROVIEW INTERNATIONAL HOLDINGS LTD 関連資料 (2011年4月13日)
https://www.tolfin.com/wp-content/uploads/2024/01/110413A.pdf - Wikipedia
Proview International Holdings
https://en.wikipedia.org/wiki/Proview_International_Holdings