索 引
1. 「ありがとう」が商標登録されていると聞いて、不安になった人たちへ
「えっ、”ありがとう”って、誰かのものなの?」
2012年当時、私のもとには、そんな素朴で切実な質問がいくつも寄せられました。日常的に使っている言葉が商標登録されていると聞くと、「もう自由に使えなくなるのではないか」と不安になるのは、無理もない反応です。
当時はネットで「身近な言葉が商標登録されている」という切り口で伝えられることがあり、そのたびに誤解が広がっていました。
私自身も、2012年12月にTBSから電話取材を受け、番組ディレクターの方と「商標権の効力はどこまで及ぶのか」という点について、突っ込んだ議論をした記憶があります。
番組内容の裏側はここでは触れませんが、やり取りを通じて感じたのは、商標権が”万能の独占権”であるかのような誤解がある、ということでした。
2. 実際に存在する「ありがとう」の商標登録
例えば、事実として「ありがとう」は本当に商標登録されているのでしょうか。答えは「はい、されています」。しかも一つではありません。
たとえば、サントリーホールディングス株式会社は、1989年出願というかなり早い時期から、「ALIGATEAU/アリガトウ」という表記で、複数区分にわたる商標登録を保有しています。また、別の企業によって、化学品(第1類)や紙製品・印刷物(第16類)といった異なる商品分野でも、「ありがとう」という文字商標が登録されています。
ここまで聞くと、「やっぱり危ないじゃないか」「もう”ありがとう”って言えないの?」と思ってしまうかもしれません。
ですが、結論から言えば、そんな心配は一切不要です。
3. 発音そのものに商標権は及ばない
商標権は”言葉の発音そのもの”を支配する権利ではないという点です。「ありがとう」と口に出して感謝を伝える行為は、登録された文字商標の場合は、そもそも商標法が想定している「商標の使用」には該当しません。
日常会話で「ありがとう」と発音することに、商標権の効力が及ぶことはありません。
4. 商標法は”商売”を規律する法律である
商標法は、事業活動における標識の使用を規制する法律です。言い換えれば、商売と無関係な場面での使用は、原則として対象外です。
個人的な手紙に「ありがとう」と書くこと、メールの文末に「ありがとうございました」と添えること、SNSで感謝の言葉として「ありがとう」と投稿すること。これらはいずれも、事業としての商品・サービスを識別させるための使用ではありません。したがって、商標権侵害の問題は生じません。
5. 商標権は”指定された商品・役務”に関連して及ぶ
商標登録を受ける際には、「どの商品・サービスについて使うのか」を指定しなければなりません。
仮に、指定商品が「文房具」である「ありがとう」の商標が存在したとしても、その効力が及ぶのは、文房具に関連する商品分野における商標的使用に限られます。飲食店のメニューに感謝の言葉として「ありがとう」と書くことや、日常生活でその言葉を使うことまで制限されるわけではありません。
商標権は、思っている以上にピンポイントな権利なのです。
6. 「文字が出てくるだけ」では商標侵害にならない
さらに押さえておきたいのが、商標として保護されるためには、”識別標識として機能していること”が必要という点です。
単に文章の一部として「ありがとう」という言葉が登場するだけでは、それは商品の出所を示す標識とはいえません。商標権が問題になるのは、商品パッケージの正面に大きく表示されている場合や、ブランド名として強調されている場合です。
普通の文章表現までが、商標権で縛られることはありません。
7. 「みんなが使っているもの」が独占されることはあるのか
この話題は、特許権についても同様です。「誰かが特許を取ったら、今まで自由に使っていた技術が使えなくなるのでは?」という不安を耳にすることがあります。
しかし、すでに公知となっている技術について、後から特許を取得することはできません。特許が成立するのは、「これまでになかった、新しく、簡単には思いつかなかった部分」に限られます。
仮に特許が成立しても、その核心部分を避ける設計をすれば、実施が可能な場合も多いのです。
8. 線引きが微妙なときこそ専門家へ
もちろん、実務の現場では「これは侵害か、侵害でないか」の判断が微妙になるケースもあります。
不安を感じた段階で専門家に相談することが重要です。過度に恐れる必要はありませんが、過度に軽視するのも危険です。
「ありがとう」という言葉が象徴するように、知的財産権は、人の営みを縛るための制度ではありません。正しく理解すれば、必要以上に自由を奪われることはないのです。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
03-6667-0247