索 引
2016年4月当時、東京オリンピック・パラリンピックの新エンブレム「組市松紋」が発表されました。2015年に起きた旧エンブレムの撤回騒動を乗り越え、日本の伝統美を象徴するデザインが選ばれたことで、多くの関係者が安堵しました。
今から振り返ると、発表はゴールではなく、国際的な権利保護という戦いの始まりでもあります。本稿では、海外での商標横取りを防いだ知財戦略と、その背景にあった「パリ条約」の仕組みについて解説します。
1. 新エンブレムのデザイン的な安全性
2015年に撤回された旧エンブレムは、丸や四角といったシンプルな幾何学構成だったため、既存のデザインと偶発的に類似するリスクが高いものでした。
一方、野老朝雄氏がデザインした「組市松紋」は、多数の四角形が計算された配置で組み合わされた緻密な構成を持っていました。
このように複雑な意匠が他者の既存デザインと偶然一致する確率は、数学的にも低いと評価されていました。
デザインの独自性が高くても、別のリスクは残っていました。それが世界を舞台にした「商標の横取り(冒認出願)」です。
2. 国内での商標登録出願による防衛策
報道によれば、大会組織委員会は発表前に徹底した事前調査を行い、すでに日本の特許庁への商標登録出願を済ませていました。これは知財戦略の定石といえる対応でした。
2015年の旧エンブレムの際も、発表直前の7月23日に3件の商標出願(商願2015-070541から070543)が行われていました。
デザインが後に撤回されたとしても、他人がそのロゴを勝手に使って商売をしたり、先に権利を主張したりすることを防ぐため、組織委員会は公式発表という隙を見せる前に権利の確保を行っていたのです。
一連の騒動の後の「組市松紋」についても、同様の手続きが完了していました。しかし、日本での出願が完了していれば安心かというと、そうでもないのです。
3. 海外勢による商標横取りリスク
商標権には「属地主義」という原則があります。
日本で登録した商標権は日本国内でしか効力を持ちません。日本で発表された瞬間に、海外の悪意ある第三者がその国の特許庁へ先に自分の名前で出願してしまうリスクがありました。
今回の選考では「透明性」が重視されていました。発表前に世界各国で秘密裏に権利を固めすぎると「密室での選定」と批判されかねず、かといってオープンにすれば海外で権利を横取りされるリスクが高まります。
組織委員会は、透明性と防衛のジレンマという難しい舵取りを迫られていました。
4. パリ条約の優先権という防衛手段
海外での商標横取りを防ぐため、国際条約には救済措置が用意されています。それが「パリ条約に基づく優先権主張」です。
この制度は、日本で最初に出願(第一国出願)を行ってから6ヶ月以内であれば、海外の加盟国へ出願する際に「日本で出願した日に、この国でも出願したのと同じように審査で不利にならないようにしてください」と主張できるものです。
優先期間:6ヶ月以内
この制度があるおかげで、日本での発表後に海外の第三者が慌てて出願したとしても、組織委員会が優先権を行使すれば、それらの出願を「後出し」として排除できました。時間を巻き戻すような効果を持つ制度といえます。
5. 時間切れを狙った嫌がらせへの警戒
当時警戒が必要だったのは、理屈だけでは終わらない現実的な問題でした。権利乗っ取りを企む集団は、最終的に日本の組織委員会が権利を勝ち取ることを承知していました。横取り出願の狙いは「登録を阻止し続けることによる時間切れ」にあったのです。
商標の登録を審判や訴訟で徹底的に引き延ばし、エンブレムが自由に使えない法的不安定な状態を長引かせることが目的になります。スポンサー企業は、権利が不透明なロゴを使うことを避ける傾向があります。そこを突き、組織委員会が金銭的な和解を申し出るまで追い込もうとする手法が懸念されていました。
新エンブレムが世界中で正当に保護され、東京大会で問題なく使える状況を作るには、パリ条約という盾を活用し、知財戦略で不当な攻撃を封じ込める必要がありました。結果として、国際条約上の保護制度の活用により、エンブレムは無事に保護されて大会を迎えることができました。
6. まとめ
東京五輪当時の新エンブレム「組市松紋」は、デザインの独自性だけでなく、国内外での商標登録戦略によって保護されました。日本での出願とパリ条約の優先権制度を活用することで、海外での横取り商標登録を回避できたのです。
国際的なイベントのシンボルを守るためには、発表前からの周到な知財戦略が不可欠であることを、この事例は示しています。
※私のコメントは平成28年4月26日付の時事通信のニュースで配信されました。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
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