索 引
2015年1月6日、トヨタが「燃料電池車(FCV)関連の特許を無償で開放する」と発表しました。当時、NHKからこの件について取材を受けた経験があります。
あれから10年の時が経過しましたが、当時の狙いは現在、どのような形で結実したのか追跡しました。今回の記事では、トヨタ公式リリース・当時の主要報道・当事者発表で確認できる範囲を中心に調べてみました。
「特許開放は実際どんな条件だったのか」「その後に何が起きたのか」という点を、読みやすい形でまとめ直しました。
1. 結論として押さえておく点
この話題は、SNSで「トヨタが特許を放棄した」「誰でも勝手に使えるようにした」と要約されがちです。トヨタが2015年に発表したのは、特許権そのものを捨てたという話ではありません。トヨタが保有する特許について、一定の条件で「特許実施権(ライセンス)を無償で提供する」という枠組みでした。
商標の世界に置き換えると理解が進みます。商標も「登録したら終わり」ではなく、実務においてはライセンス(使用許諾)契約で広げることがあります。特許も同様で、「権利を握りつつ、使う人を増やすために条件を設計する」手法が存在します。トヨタの2015年発表は、この条件設計がポイントでした。
2. 2015年の開放特許の詳細と条件
トヨタ公式発表(2015年1月6日)に書かれている要点は、主に三点に整理されます。
一点目として、対象は世界で約5,680件(審査継続中を含む)でした。トヨタが単独で保有する燃料電池関連特許について、約5,680件を対象に実施権を無償提供するとしています。
二点目として、無償の期限が車両側とインフラ側で異なっていました。FCVの開発・生産の根幹となる特許(燃料電池スタック・高圧水素タンク・燃料電池システム制御など)は、市場導入初期として「2020年末までを想定」した無償期間が設定されていました。一方で、水素供給・製造など水素ステーション関連(約70件)については、設置・運営に使用する場合、期間を限定せず無償としています。
三点目として、手続きは「申込み→個別協議→契約締結」という流れでした。この点が重要です。公開ページからダウンロードして終わりという形ではありません。トヨタのリリースには明確に、トヨタへの申込みを行い、実施条件を個別協議したうえで契約書を締結すると記載されています。
2015年の特許開放とは、SNSで想像されがちな「ノールールの自由使用」ではなく、「無償ライセンスを出す(ただし契約は結ぶ)」という、かなり企業実務的な形でした。
取材当日に問われたポイント
当時の取材では「なぜこのような大盤振る舞いをするのか」という問いを中心に見解を聞かれました。特許も商標も、権利は本来「使わせない」ことすら可能な強力な道具です。それを無償で開くのは、普通の感覚では逆に見えるため、NHKがその意図を知りたがるのは当然の流れです。
ただし2026年のいま、当時の空気感だけで「こういう狙い」と断言すると、推測が混じってしまいます。そこで本稿では、狙いの解釈は最小限にして、一次情報として企業が何をすると言ったか、何をしたと言っているかに寄せて分析する方針としました。
3. 2015年当時の世間の受け止め方
2015年1月6日、ロイターはトヨタの発表を受けて、業界関係者のコメントを紹介しています。
日産・ホンダ関係者からは、特許無償開放を「英断」と評価し、普及とインフラ整備の加速につながる期待が語られました。他方でロイター記事は、「トヨタの狙い通り、実際に競合他社が技術を採用するかどうかが注目される」という温度感も伝えています。当日からすでに、称賛と様子見が同居していたわけです。
この「様子見」は、後から振り返ると伏線となりました。
4. 2019年の大きなアップデート
当時(2015年)のトヨタ公式発表には、「2020年末までを想定」という期限が明記されていました。その後トヨタは2019年4月3日の公式リリースで、方針を大きく更新しています。
トヨタは、車両電動化技術の特許について、世界で約23,740件を対象に「2030年末まで」無償で特許実施権を提供すると発表しました。
その内訳には、2015年から無償提供していた燃料電池関連も含まれることが明記され、燃料電池関連の件数として約8,060件が示されています。さらに、特許だけでなく、完成車メーカーがトヨタの電動化システムを購入して活用する場合に、有償で技術サポートを行うことも同じリリースに書かれました。
2015年に示された「2020年末まで想定」の無償提供は、2019年時点で「2030年末まで」に延長され、枠組みが拡大しています。
5. 2021年のFCモジュール発表
次の節目は2021年2月26日です。トヨタは、燃料電池システムをパッケージ化した「FCモジュール」を開発し、2021年春以降に販売開始予定と公式に発表しました。
このリリースでトヨタは、モジュール化によって、トラック・バス・鉄道・船舶などのモビリティや定置式発電機など、さまざまな用途のFC製品の開発・製造事業者が、容易に活用できると説明しています。
2015年当時の「ライセンス無償提供」だけでは見えにくかった展開がはっきりしてきます。トヨタは権利(特許)を開くだけでなく、製品(モジュール)として提供するところへ歩みを進めたということです。
6. その後の展開を時系列で追う
ここからは、トヨタや関係企業の公式発表として確認できる「起きたこと」を、時系列でみてみます。
2015年1月には、FCV特許「約5,680件」の無償実施権提供が発表されました。車両側は「2020年末までを想定」、水素ステーション側は「無期限」とされ、手続きは申込み・個別協議・契約締結という形式でした。同月、ロイターは業界からの称賛と同時に、競合が本当に採用するかが焦点になると伝えています。
2018年9月には、トヨタが欧州でバス向けに燃料電池システム供給を発表しています。ポルトガルのCaetanoBusに対し、燃料電池スタックや水素タンク等を含む燃料電池システムを供給し、水素燃料電池バスを製造するという内容でした。
2019年4月には、特許無償提供が「約23,740件」「2030年末まで」に拡大され、技術サポート(有償)も明記されました。燃料電池関連も含まれるとされ、その内訳として約8,060件が示されています。
2020年6月には、中国で商用車燃料電池システムのR&D合弁(JV)設立に関する発表がありました。トヨタを含む6社が、中国で商用車燃料電池システムの研究開発に向けた合弁を設立する旨がトヨタ公式に掲載されています。
2021年2月には、FCモジュールを開発し「2021年春以降に販売開始予定」と発表されました。用途を「トラック・バス・鉄道・船舶・定置式発電機」などへ広げ、FC製品事業者が容易に活用できると説明されています。
2022年1月には、欧州で第2世代燃料電池モジュールの組立が開始されました。トヨタ・モーター・ヨーロッパ(TME)が、ブリュッセル近郊のR&D拠点で、パイロット組立ラインを稼働させる旨を発表しています。
2023年5月には、PACCARと商用化に向けた協業拡大が発表されました。PACCARの発表として、Kenworth/Peterbiltの燃料電池トラックを商用化し、2024年に初期顧客納入予定とされています。
2025年2月には、第3世代燃料電池システムの開発が発表されました。
トヨタは第3世代FCシステムを発表し、2026年以降に日本・欧州・北米・中国などを中心に導入としています。加えて、トヨタ自身の説明として「2014年以降、約28,000台を販売」「2019年以降、バス・鉄道・定置発電機など向けに2,700ユニット超を100社超に供給」といった数字も示されています。
7. 特許商標のプロの視点から見た知財戦略の本質
特許や商標登録の現場で日々感じることを、今回の事例に重ねてみます。
商標も特許も、権利そのものは「排除」する力を持っています。しかし、事業を伸ばす局面では、排除より仲間を増やした方が強い場面があります。トヨタの2015年発表は、「水素社会の入り口で、参加者を増やす」ために、知財の使い方を変えた事例として読み取れます。
さらに2019年以降の動きを見ると、特許の無償化だけでなく、技術サポートやモジュール提供に踏み込んでいます。これは知財の世界で言うところの、「権利の宣言」から「使われるための仕組み(契約・支援・商品)」へ移行したとみることができます。
8. まとめ
2015年、トヨタは「開放特許」の賭けに出たといえます。その正体は「放棄」ではなく「無償ライセンス(ただし契約は結ぶ)」であり、車両側とインフラ側で期限設計が分かれていました。
2019年に公式に延長・拡大され、2021年以降はモジュール販売や商用分野での展開が、トヨタ自身や提携先の発表として積み上がっていることです。
「特許を開ければ世界が動く」ではなく、動くように設計した知財の使い方が、後から効いてくる。この教訓は、特許だけでなく、商標(ブランド)をどう守り、どう広げるかにも、そのまま応用できます。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
03-6667-0247
参考資料
- [1]: https://global.toyota/jp/detail/4663446 “トヨタ自動車、燃料電池関連の特許実施権を無償で提供 | トヨタ自動車株式会社 公式企業サイト”
- [2]: https://jp.reuters.com/article/world/japan/-idUSKBN0KF1F4/ “「ものすごい英断」と驚きの声、トヨタ燃料電池車の特許無償開放 | ロイター”
- [3]: https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/27511695.html “トヨタ自動車、ハイブリッド車開発で培ったモーター・PCU・システム制御等車両電動化技術の特許実施権を無償で提供 | コーポレート | グローバルニュースルーム | トヨタ自動車株式会社 公式企業サイト”
- [4]: https://global.toyota/jp/newsroom/corporate/34799387.html “カーボンニュートラルに向けた水素活用の促進を目指し、燃料電池システムをパッケージ化したモジュールを開発 | コーポレート | グローバルニュースルーム | トヨタ自動車株式会社 公式企業サイト”
- [5]: https://global.toyota/en/newsroom/corporate/24694710.html “Toyota to supply its hydrogen technology to Caetanobus SA (Portugal) Europe | Corporate | Global Newsroom | Toyota Motor Corporation Official Global Website”
- [6]: https://global.toyota/en/newsroom/corporate/32732372.html “Six Companies Establish R&D Joint Venture for Commercial Vehicle Fuel Cell Systems for the Creation of a Hydrogen-based Society in China | Corporate | Global Newsroom | Toyota Motor Corporation Official Global Website”
- [7]: https://newsroom.toyota.eu/toyota-starts-european-production-of-2nd-generation-fuel-cell-modules/ “Toyota 2nd generation fuel cell modules European production”
- [8]: https://www.paccar.com/news/current-news/2023/paccar-and-toyota-expand-hydrogen-fuel-cell-truck-collaboration-to-include-commercialization/ “PACCAR and Toyota Expand Hydrogen Fuel Cell Truck Collaboration to Include Commercialization | PACCAR Inc”
- [9]: https://global.toyota/en/newsroom/corporate/42218558.html “Toyota Develops New Fuel Cell System | Corporate | Global Newsroom | Toyota Motor Corporation Official Global Website”