索 引
1. あの有名な時代劇の主人公は、実は誰のものなのか?
桜吹雪の刺青で有名な「遠山の金さん」。多くの人にとって馴染み深いこのキャラクターが、実は商標登録されていることをご存知でしょうか。
しかも、その商標権をめぐって熾烈な法廷闘争が繰り広げられていたのです。
「えっ、歴史上の人物の名前って商標登録できるの?」
そんな素朴な疑問から始まるこの事件は、知的財産権の世界において極めて興味深い論点を提示しています。
今回は、この「遠山の金さん」商標事件を通じて、歴史上の人物とフィクションキャラクターの境界線、そして商標法における公序良俗の考え方について詳しく解説していきます。
2. 「遠山の金さん」は立派な登録商標です
商標登録の詳細情報
まず驚くべき事実からお伝えしましょう。「遠山の金さん」は、れっきとした登録商標なのです。特許庁の商標公報によると、以下の通り正式に登録されています。
なぜこの登録が問題となったのか
ここで多くの方が疑問に思われるでしょう。「歴史上の有名人の名前って、たとえ略称であっても登録できないのでは?」実はこの直感は正しいのです。
商標法では、歴史上の有名人の名前からなる商標は、フルネームだけでなく略称であっても「公序良俗違反」に該当し、原則として登録を受けることができません。
これは、特定の個人や企業が歴史上の偉人の名前を独占することで、社会全体の利益を害する可能性があるためです。
しかし、「遠山の金さん」の場合、事情は少し複雑でした。
果たして「遠山の金さん」は本当に歴史上の実在人物「遠山景元(金四郎)」と同一なのか。
それとも、長年にわたって映画やテレビで親しまれてきたフィクションキャラクターなのか。
この微妙な境界線こそが、本件の最大の争点となったのです。
3. 激しい法廷闘争の始まり:無効審判での攻防
無効審判の概要
商標登録から約9年後の2012年、この登録商標に対して無効審判が請求されました。
請求人は株式会社サンセイアールアンドディと株式会社第一通信社、被請求人は東映株式会社という構図で、知的財産の専門家たちが注目する重要な審判となりました。
審判の詳細情報:
(確定:2014/09/18)
請求人の主張:公共財産の独占は許されない
請求人側の主張は明快でした。
歴史上の名奉行「遠山金四郎」は全国的に周知・著名な存在であり、その名前は観光振興などにも活用されている貴重な公共財産である。このような公共性の高い名称を一私企業である東映が独占することは、以下の理由で許されないというものでした。
まず、公共の利益や道徳観念に反するという点です。
歴史上の人物の名前は、本来であれば国民全体の共有財産であり、特定の企業が独占すべきものではありません。また、遠山景元の名声に便乗する「フリーライド」の問題、そしてその名声を希釈化させる恐れがあるという指摘も重要でした。
さらに請求人は、東映が指定商品の大半を実際には扱っておらず、不正の目的で広範囲にわたって出願したのではないかという疑念も表明しました。これは商標制度の趣旨に反する行為として問題視されたのです。
被請求人(東映)の反論:これは我が社が育てたキャラクター
一方、東映側の反論も説得力のあるものでした。
同社は「遠山の金さん」が歴史上の人物名への単なる便乗ではなく、自社が長年にわたって築き上げてきた独自のブランドであることを強調しました。
東映の主張によると、「遠山の金さん」は同社の時代劇映画・テレビシリーズにおいて30年以上、計750話を超える作品で描かれてきた架空キャラクター名です。この膨大な制作実績により、「遠山の金さん」は歴史上の人物というよりも、東映作品の代表的なキャラクターとして一般に認識されるようになったのです。
また、商標取得の目的も、自社作品のブランド管理や商品化のためであり、歴史的人物名への便乗や不正な利用を意図したものではないと反駁しました。
商標自体にも卑猥・差別的要素は一切なく、出願経緯にも社会的不当性は認められないというのが東映の立場でした。
審決の判断:社会的認識が決め手
特許庁の審決は、この複雑な争いに対して明確な判断を示しました。結論から言えば、無効請求は不成立となり、東映の商標権が維持されることになったのです。
審決で最も重視されたのは「社会的な認識」でした。
確かに遠山景元という歴史上の人物は実在しましたが、「遠山の金さん」という呼び名については、遅くとも昭和以降は東映等の時代劇タイトルや主人公として一般に浸透していることが認定されました。
重要なのは、一般の取引者・需要者が「遠山の金さん」という言葉を聞いたとき、歴史上の実在人物よりもテレビ番組のキャラクターを想起するという点です。
これは、東映が長年にわたって制作してきた作品群の影響力の大きさを示すものでした。
公序良俗違反の判断についても、審決は慎重な検討を行いました。
商標の構成自体に不道徳な要素は認められず、出願経緯も東映が長年築いた番組の信用を保護するためのものであり、「著しく社会的妥当性を欠く事情」は見当たらないとされました。
この審決が示した重要な原則は、歴史上の人物名であっても、社会での実態的な使われ方(フィクションのキャラクターとしての周知性など)を重視するということです。
また、公序良俗違反の判断は例外的に限定解釈され、出願の社会的妥当性が厳しく問われることも明らかになりました。
4. 最終決戦:審決取消訴訟での徹底抗戦
訴訟の背景と経緯
審決に不服を感じた請求人たちは、2013年に審決取消訴訟を提起しました。これが世に言う「遠山の金さん」事件の審決取消訴訟です。
訴訟の詳細:
原告の執念深い主張
原告側は審判段階での主張をさらに発展させ、より詳細で感情的な論証を展開しました。
まず、「遠山の金さん」と「遠山景元」の同一性について、当時から実際にそう呼ばれていたという歴史的根拠を主張しました。
また、「遠山の金さん」という名前を使った映画やドラマを制作しているのは東映だけではないため、東映制作の番組名として特別に認識されているわけではないと反論しました。
さらに興味深いのは、遺族感情や国民感情に訴える主張です。
遠山景元とは縁もゆかりもない東映が「遠山の金さん」を独占することで、遺族や国民が嫌な思いをするという、やや感情的な論理も展開されました。
特に注目すべきは、伝統芸能や公益事業への影響を懸念する主張です。
歌舞伎等の伝統芸能や縁の地での公益的事業に「遠山の金さん」が使われているにもかかわらず、東映がこれらに悪影響を及ぼすと分かっていながら自分の利益のために商標登録出願をしているという批判でした。
また、本件商標が文字のみで構成されているため、登録されると「遠山金四郎」等の類似する表現にも商標権の効力が及び、伝統芸能や公益的な事業に広範な支障が出るという実務的な懸念も示されました。
被告(東映)の冷静な反論
東映側は、原告の感情的な主張に対して事実に基づいた冷静な反論を行いました。
まず、「遠山の金さん」のストーリーがフィクションであることを改めて強調しました。
遠山景元が生きているうちから「遠山の金さん」という呼び名があったという根拠は乏しく、現在我々が知る「遠山の金さん」のイメージは後世の創作によるものだという主張です。
そして何より重要なのは、いわゆる「遠山の金さん」のイメージを定着させたのは東映制作のドラマであるという事実でした。
この主張は、単なる便乗ではなく、東映が積極的にブランドを構築してきたことを示すものです。
商標出願の目的についても、東映は明確に説明しました。本件商標の出願は、東映制作の番組に関するグッズ製作のためであり、出願の目的や理由に何ら問題はないというものです。
また、指定商品の範囲から考えて、本件商標が登録されても伝統芸能や公益的事業等に実質的な支障は生じないという実務的な反論も行いました。
東映制作の番組名等として認識されている本件商標を東映が登録しても、遺族や国民が嫌な思いをすることはないという、原告の感情論に対する理性的な応答でした。
裁判所の最終判断:架空と実在の微妙な境界線
裁判所の判断は、この複雑な問題に対する司法の叡智を示すものでした。
結論は「『遠山の金さん』は完全な架空の人物とは言えないが、それでも『遠山景元』という実在の人物そのものではないため、審決は正しい」というものでした。
この判断の根拠は理的です。
まず、「遠山景元」に関する客観的史料が少なく、その業績等に不明点が多いため、いわゆる「遠山の金さん」のイメージと本人を同一視することはできないという史学的な観点からの分析でした。
さらに重要だったのは、社会的認識に関する判断です。
東映が最初に「遠山の金さん」という名前を使ったわけではないものの、長年にわたって「遠山の金さん」シリーズの映画やテレビ番組等を数多く制作しているため、「遠山の金さん」といえば特に東映制作の番組名等が思い浮かぶという社会的実態が認定されました。
公益性の観点からも、裁判所は一定の判断を示しました。
本件商標を指定商品に使用しても「遠山景元」の独占ではないから公益を阻害することはなく、「遠山の金さん」に関する芝居や映画・ドラマ等の制作に支障が出るとも言えないとされました。
ただし、裁判所も公益への影響を完全に無視したわけではありません。
例えば公的な団体等が「遠山の金さん」を目印にしたお土産物を販売することには支障が出るかもしれないが、公益的な事業への影響は限定的であるという、バランスの取れた判断を示しました。
5. もう一つの名奉行:「大岡越前」も同じ道を歩んでいた
「大岡越前」商標の存在
実は「遠山の金さん」だけでなく、もう一人の名奉行「大岡越前」も商標として登録されています。これは単なる偶然ではなく、時代劇というコンテンツ産業の特性を示す興味深い事例です。
大岡越前の商標情報:
特許庁の商標公報より引用
指定商品は非常に幅広く、デジタルコンテンツから食品、酒類まで多岐にわたっています。第9類の「デジタルデータ通信を使用したダウンロード可能な着信メロディー用音楽,録音済みのコンパクトディスク」から、第30類の「べんとう,ホットドッグ,ミートパイ」、さらには第33類の「日本酒,洋酒,果実酒」まで含まれているのです。
時代劇キャラクターの商標化という潮流
「大岡越前」の商標権者も、やはり同名のテレビ番組を制作した会社です。これは「遠山の金さん」事件と全く同じパターンであり、時代劇制作会社が自社のコンテンツを保護するために商標登録を活用している実態を浮き彫りにしています。
興味深いのは、「大岡越前」の場合は特に大きな法的争いになっていないことです。
これは、「大岡忠相」という実名よりも「大岡越前」という官職名での呼び方が一般的であり、より抽象的な印象を与えるためかもしれません。あるいは、「遠山の金さん」ほど広範な利用がなされていないという事情もあるでしょう。
コンテンツ産業の知的財産戦略
これらの事例は、現代のコンテンツ産業における知的財産戦略の一端を示しています。長年にわたって築き上げてきたブランドを保護し、関連商品の展開を円滑に行うために、制作会社が積極的に商標権を取得しているのです。
ただし、これらの権利行使には慎重さが求められます。
あまりに広範囲で権利を主張すれば、今回の「遠山の金さん」事件のような法的争いを招く可能性があります。
権利者には、社会的な理解を得られる範囲での適切な権利行使が期待されているのです。
6. この判決が示す深い意味と今後への示唆
歴史とフィクションの境界線
この事件が提起した最も本質的な問題は、歴史上の人物とフィクションキャラクターの境界線をどこに引くかということでした。裁判所の判断は、完全に客観的な史実だけでなく、社会的な認識や文化的な文脈を重視する姿勢を示しました。
「遠山景元」という歴史上の人物は確実に存在しましたが、我々が現在「遠山の金さん」として認識しているイメージの多くは、後世の創作によって形成されたものです。
桜吹雪の刺青、「この桜吹雪が目に入らぬか」という決め台詞、庶民派の正義感あふれる奉行というキャラクター設定は、主に映画やテレビドラマによって作り上げられたフィクションなのです。
商標法における公序良俗の新たな解釈
この事件は、商標法第4条第1項第7号(公序良俗違反)の解釈についても重要な示唆を与えました。従来、歴史上の人物名は一律に登録できないと考えられがちでしたが、この判決は単純な人物名該当性だけでなく、以下の要素を総合的に考慮すべきことを示しました。
まず、出願者と当該人物との関係性です。東映の場合、長年にわたって「遠山の金さん」シリーズを制作し、このキャラクターのイメージ形成に決定的な役割を果たしてきました。これは、単なる便乗出願とは性質を異にします。
次に、商標の使用態様と社会への影響です。指定商品の範囲や実際の使用方法を見ると、伝統芸能や公益事業への実質的な影響は限定的であることが認定されました。
さらに、社会的認識の変化も重要な要素でした。時代の経過とともに、「遠山の金さん」が歴史上の人物よりもフィクションキャラクターとして認識されるようになったという社会的実態が尊重されたのです。
コンテンツ産業への影響
この判決は、コンテンツ産業にとって非常に重要な意味を持ちます。長年にわたって育ててきたキャラクターやブランドが、たとえ歴史上の人物に由来するものであっても、適切な範囲で保護される可能性が示されたからです。
ただし、これは無制限な権利拡張を意味するものではありません。権利者には、社会的責任を伴う慎重な権利行使が求められます。特に、伝統芸能や地域振興などの公益的な活動に対しては、寛容な姿勢を示すことが期待されるでしょう。
今後の類似事例への示唆
この事件の判断基準は、今後の類似事例にも適用される可能性があります。歴史上の人物に由来するキャラクターの商標登録を検討する際には、以下の点が重要になるでしょう。
まず、当該キャラクターのイメージ形成における出願者の貢献度です。単に歴史上の人物名を使用するだけでなく、独自のキャラクター設定や世界観を構築した実績があるかが問われます。
次に、社会的認識の実態です。一般の人々が当該名称を聞いたとき、歴史上の人物とフィクションキャラクターのどちらを想起するかという点が重視されます。
最後に、公益への影響の程度です。商標権の行使によって、文化的活動や公益事業にどの程度の支障が生じるかという実質的な判断が行われます。
7. おわりに:知的財産権の新たな地平線
「遠山の金さん」商標事件は、知的財産権の世界において一つの重要なマイルストーンとなりました。
この事件が示したのは、現代社会における権利保護のあり方が、単純な法的原則の適用だけでなく、社会的文脈や文化的価値を総合的に考慮した複合的な判断を必要とするということです。
歴史とフィクション、個人の権利と公共の利益、文化的価値と商業的利用。これらの複雑な要素が交錯する現代において、この事件の判断基準は今後の知的財産権のあり方を考える上で貴重な指針となるでしょう。
そして何より、この事件は我々に問いかけています。文化的なキャラクターや物語は誰のものなのか。それを育て、発展させてきた人々の権利はどの程度保護されるべきなのか。一方で、文化的共有財産としての価値はどのように維持されるべきなのか。
「遠山の金さん」は、スクリーンの中で、桜吹雪の刺青を見せながら悪を裁いています。
その姿の背後には、このような深い法的・文化的な議論が存在していることを、我々は決して忘れてはならないでしょう。
知的財産権という制度が、単なる法的権利の確保だけでなく、文化の継承と発展という人類の営みに深く関わっていることを、この事件は雄弁に物語っているのです。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
03-6667-0247