索 引
1. 2015年7月30日の「デイ・キャッチ!」生出演を振り返って
2015年7月30日(木)、TBSラジオ「デイ・キャッチ!」で東京オリンピックのエンブレム問題について生出演で解説しました。当時、この問題は連日メディアで取り上げられ、国民的な議論を巻き起こしていました。
当時、議論の中心となっていたのは大きく分けて2つの論点です。
第一に、東京オリンピックの公式エンブレム(盗作が疑われたデザイナー側の案)がベルギー・リエージュ劇場のロゴ(オリビエ・ドビ氏)に似ているのではないかという指摘でした。
第二に、東京五輪エンブレムの配色がスペイン・バルセロナのデザイン事務所「Hey Studio」による東日本大震災復興用ロゴの配色に似ているのではないかという問題でした。
番組では安東アナウンサーから、国際的な商標や著作権の観点から見て問題はないのかという趣旨の質問を受け、国際的な商標実務の立場から解説しました。
この記事は、そのときの内容に加えて、その後に起きた「白紙撤回」と「1億900万円の損失」、そしてデザイナーや発注者が負うべき法的リスクを、2025年時点の視点で整理し直したアップデート版です。
2. 当時の論点①:色の組み合わせはどこまで「真似」になるのか
ラジオで最初に問われたのは、東京五輪のエンブレムの配色がスペインのHey Studioの復興ロゴの配色と似ているが、法的に問題なのかという点でした。
色そのものは原則「自由に使ってよい」
商標法や著作権法の実務では、どの色を使うか、どの色の組み合わせを使うかという色彩そのものの選択は原則として自由です。
もちろん例外はあります。コカ・コーラの赤やティファニーのブルーのように、日本国内で特定企業を想起させるほど有名になっている色や色彩の組み合わせは、仮に日本で色彩のみの商標として出願すれば、保護される可能性があります。その場合は他社が商標登録された色を自由に真似できるわけではありません。
しかし、こうした保護はあくまで日本で圧倒的に有名であることが前提条件です。当時問題になっていたスペインの復興ロゴは、日本国内ではそこまでの周知性があるとは言えませんでした。
そのためラジオでは、色彩の組み合わせが似ているだけで日本で東京五輪エンブレムの使用差止めを勝ち取るのはかなりハードルが高いという趣旨でお話ししました。この評価は、2025年の現在から見ても大きくは変わりません。
3. 当時の論点②:リエージュ劇場ロゴとの「類似」の問題
もうひとつの大きな争点が、東京五輪エンブレムがベルギーのリエージュ劇場のロゴに似ているのではないかという問題でした。
ここで重要なのは、商標権の効力は国ごとに別々だという点です。
東京オリンピック組織委員会は、国際商標登録のルートを使ってエンブレムの保護を進めていましたが、それは一度出願すれば全世界で自動的に通るという制度ではありません。実際には、各国の特許庁がそれぞれ商標登録の可否を審査します。
たとえベルギーでドビ氏が商標権を持っていても、その効力が自動的に日本に及ぶことはありません。
この属地主義の原則は、国際的な知的財産権を理解する上で欠かせない視点です。
商標の「似ている/似ていない」はどう判断されるか
ラジオでは、商標の類否判断の基本として、外観(見た目が似ているか)、称呼(呼び方・音が似ているか)、観念(意味・イメージが似ているか)という3要素の話をしました。
これらを需要者の目線で特許庁の審査官が総合判断し、出所の誤認混同が生じるおそれがあるかどうかがポイントになります。つまり、一般の消費者が両者を見たときに「同じ会社が作ったものだ」と誤解する可能性があるかどうかが判断基準となるのです。
東京五輪エンブレムとリエージュ劇場ロゴについても、ある程度の外観上の共通点はあるものの、全体として同じ出所だと誤解するほどかどうかは専門家でも意見が分かれるという状況でした。当時の時点では、直ちに確実に商標権侵害だとまでは言い切れないという、やや慎重な評価をお伝えしました。
4. その後に起きたこと:白紙撤回と「1億900万円」の損失
しかし、その後の展開は急でした。
2015年8月、エンブレム展開例の画像で写真の無断転用があったことが判明しました。そして2015年9月1日、東京2020大会組織委員会が旧エンブレムの使用中止・白紙撤回を発表しました。
この段階で、色彩の問題やリエージュ劇場ロゴとの商標・著作権の本格的な法廷闘争に入る前に、そもそもエンブレム自体が撤回されてしまいました。
旧エンブレムにかかったお金の総額
その後、2016年1月19日に組織委員会が公表したところによると、旧エンブレム関連の費用総額は約1億900万円とされています。
内訳を見ると、公式エンブレム発表会経費が約6,800万円、商標調査・登録費用が約3,100万円、応募・選考関係経費が約900万円、ポスター・名刺台紙等の制作費が約100万円です。これらを合計すると約1億900万円になります。
この金額は、ロゴのデザイン料そのものではなく、旧エンブレムを世の中に出すための一連のコストです。デザイン一つを世に送り出すために、これほどの費用が動いていたという事実は、大規模プロジェクトにおけるブランディングの重みを物語っています。
「7000万円」は何のお金だったのか
世間でよく話題になった「7000万円」という数字は、2015年7月24日に都庁で行われたエンブレム発表イベントの経費を指しています。東京都の資料では「大会エンブレム発表イベント(7月24日開催) 7,000万円」と整理されており、後の会計整理では実際の発表会経費は約6,800万円とされています。
当初、この発表会費用は東京都が負担する予定でしたが、白紙撤回の経緯を踏まえ、最終的には組織委員会が都に請求しない、つまり全額組織委負担という形で決着しました。ひとつの発表イベントに約7,000万円という金額は、一般の感覚からすれば驚くべき額かもしれません。しかし、オリンピックという世界的イベントのブランド発表という性格を考えれば、これが現実のプロジェクト規模だったのです。
5. デザイナーへの支払いはどうなったのか
公募要項では、採用作品には賞金100万円が予定されていましたが、白紙撤回後、組織委員会はこの100万円を支払わない方針を明言しました。
さらに、エンブレム公募の募集要項には、採用作品の著作権・商標権・意匠権など一切の権利を組織委員会に無償譲渡すること、著作者人格権は行使しないことといった条項が設けられています。これは新エンブレム公募の要項にも同様の規定があります。
つまり旧エンブレムについても、著作権などの財産権は組織委員会側に帰属する設計だったのです。デザイナー個人が権利者としてライセンス収入を得たり、逆に損失補填義務を負う構造にはなっていませんでした。
結果として、旧エンブレム関連の1億900万円の損失は、組織委員会側が全額をかぶるという結末になりました。
6. もしデザイナーが「権利者」だったら何が起きていたか
ここから先は、実際の事案ではなく一般論としての警鐘です。
仮に、デザイナー側がロゴの著作権を自分で保有したままで、アシスタントや外注先に任せた素材の中に他人の著作物の無断利用・盗用が含まれていて、そのロゴをクライアントが大規模キャンペーンに使った結果、白紙撤回・全面差し替えとなり、その費用が数千万円から1億円を超える規模に膨らんでいたとしたらどうなるでしょうか。
契約の内容にもよりますが、多くの場合、デザイナー側は「第三者の権利を侵害していないこと」を表明・保証しています。クライアントが第三者から損害賠償請求を受けた場合、一定範囲でデザイナーが賠償・補償するという条項が入っていることが少なくありません。
そのような条項があれば、プロジェクト全体で発生した損失、つまり今回でいえば発表会、商標出願、制作物の差し替えなどをめぐって、デザイナー側に1億円を超える損害賠償請求が飛んでくる可能性も、決して絵空事ではありません。
旧エンブレムのケースでは、著作権は組織委側に帰属する設計だったこと、白紙撤回後、賞金100万円も不支給となった代わりに組織委側が1億900万円の損失を飲み込む形で決着したため、デザイナー個人が巨額の賠償義務を負う事態には至りませんでした。
しかし、契約の設計次第ではまったく違う結末になり得たという点は押さえておくべきだと思います。
7. 「トップクリエイター一人勝ち」構造とリスク管理
今回の騒動の際、デザイン業界からも構造的な問題が指摘されました。一部のトップクリエイターに仕事が集中し、実務はアシスタントや外注に任されているのに、名前はトップだけが出るという状況です。
もし、こうした構造のもとで、素材選定やストックフォトのライセンス確認が現場任せになっていたり、AI画像生成やネットの画像検索結果を権利確認なく「なんとなく」使ってしまうといった運用が続けば、最終的な責任は名前が表に出ている人に集中することになります。
結果として、「アシスタントや外注がやったことだから」では済まず、トップクリエイター個人や、その事務所・会社が、数千万から億単位の損害賠償リスクを抱えるということを、今回の事例は強く示唆しています。
この問題は、デザイン業界だけでなく、建築、広告、コンサルティングなど、名前で仕事を受ける業界全般に共通する課題といえるでしょう。
8. 依頼する側・作る側が今からできること
以前問題になった東京五輪エンブレム問題は、単に「似ている・似ていない」「パクリかどうか」のワイドショーネタで終わらせるには、あまりにも高くついたケースです。
依頼する側(企業・団体)としては、契約書で権利帰属と表明・保証、賠償範囲をきちんと定めることが大切です。
大型案件では、商標・著作権の専門家による事前クリアランスを入れる必要があります。どこまでがデザイナー側の責任で、どこからがクライアント側の判断なのかを事前に整理することも欠かせません。
作る側(デザイナー・クリエイター)としては、素材ごとに出典とライセンス条件を記録しておくことが基本です。
チーム内で「これは使ってよい素材か?」を確認するフローを作り、「参考にしたが、どこをどのように変えたか」を説明できるようにしておく必要があります。契約で負う責任の範囲と、自社の保険や体力が見合っているかを確認することも忘れてはいけません。
これらは一見面倒に思えるかもしれませんが、一度大きなトラブルが起きれば、その損失は計り知れません。予防にかかるコストは、事後の損失に比べれば微々たるものです。
9. まとめ:あのラジオ解説を、10年後の視点で言い換えるなら
2015年7月のラジオでは、色だけが似ているからといって直ちに日本で差止めが認められるわけではないこと、商標の類似は外観・称呼・観念の総合判断であり専門家でも意見が分かれることなど、純粋に法技術論だけに絞った解説をしました。
2025年の今、同じテーマを語るとしたら、そこに次の一文を必ず付け足します。
「しかし、大規模プロジェクトのロゴ・エンブレムでは、ひとたび信用問題が起きれば、数千万から1億円超の損失が発生します。その損失を誰がどこまで負うのか、権利関係と契約の設計を甘く見てはいけません」
東京五輪エンブレム問題は、似ているかどうかだけでなく、権利の帰属、契約のリスク配分、業界構造、ブランドや国家の信頼までを巻き込んだ、高価な授業料だったと言えます。
同じことを自社のブランドで繰り返さないために、この事例を他山の石として、ぜひ一度、自社や自分のまわりのデザイン実務を点検してみてください。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
03-6667-0247
参考資料
- [1]: 「ニュース『東京五輪エンブレムは法的に問題なのか』」
https://www.corporate-legal.jp/news/2053 - [2]: 「【全文】オリンピック組織委員会が会見でエンブレム取り下げを …」
https://logmi.jp/attention/press_conference/87958 - [3]: 「白紙撤回の旧エンブレム 1億円超の費用が無駄に – テレ朝NEWS」
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000066564.html - [4]: 「旧五輪エンブレム:損失は1億900万円」
https://mainichi.jp/articles/20160120/k00/00m/050/080000c - [5]: 「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会エンブレム …」
https://www.2020games.metro.tokyo.lg.jp/975ad4ea605f342bf62d20d42e226b60.pdf - [6]: 「佐野研二郎」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%A0%94%E4%BA%8C%E9%83%8E - [7]: 「東京2020大会エンブレムデザイン募集 – 登竜門」
https://compe.japandesign.ne.jp/tokyo2020-emblem-2015/ - [8]: 「五輪エンブレム問題 声あげない業界、陰謀論に憤り 中川 …」
https://withnews.jp/article/f0150902000qq000000000000000w0080901qq000012434a