索 引
1. はじめに——”iPhone”が日本で登録できないって本当?
「世界で最も有名なスマートフォンが、日本では自社名義で商標登録されていない」——この話を聞いたことはありませんか?
ビジネスパーソンの間でしばしば都市伝説のように語られるこの話題ですが、実は本当の話です。
アップル社が誇る「iPhone」は、日本では名古屋のインターホンメーカー・アイホン株式会社が1955年に登録した商標「アイホン」と読み方が一致するため、アップルは自社名義で商標を取得することができませんでした。
それでは、なぜアップルは日本で堂々と「iPhone」を販売できているのでしょうか。その裏には、商標法の巧妙な活用と、両社の賢明な判断による「ウィン・ウィン」の契約が隠されているのです。
この事例は、グローバル企業でさえも直面する商標の重要性と、先願主義というシンプルなルールが持つ絶大な力を物語っています。
今回は、この興味深い商標戦略の全貌を詳しく解説し、中小企業やスタートアップが学ぶべき教訓を探っていきましょう。
2. アイホン株式会社——インターホンのパイオニアが握る”黄金の名前”
アイホン株式会社は1948年に創業された、インターホン業界のパイオニア企業です。
家庭用から集合住宅向けまで、幅広いインターホンシステムで国内トップシェアを誇る老舗メーカーとして、70年以上にわたって日本の住宅事情を支えてきました。
同社が商標「アイホン」をカタカナ表記で登録したのは1955年のことです。
1950年代にアイホン社が取得した商標「iPhone」の商標権
(商願昭29-008949)
(商願昭63-108663)
当時はまだ携帯電話もスマートフォンも存在せず、固定電話が一般家庭に普及し始めた時代でした。アイホンは家庭用電話機のブランドとして、そして将来的な事業拡大を見据えて、自社の屋号と製品ブランドを守るために丁寧に権利を押さえていたのです。
この先見の明ある判断が、半世紀後に思わぬ形で同社に巨額の利益をもたらすことになるとは、当時の経営陣も想像できなかったでしょう。
これこそが商標登録の本質的な価値なのです。
将来どのような技術革新や市場変化が起こるかわからない中で、自社の名前やブランドを早期に保護しておくことの重要性を、この事例は物語っています。
3. 商標法のキホン——先願主義と「類似範囲」の考え方
商標権の世界では「早い者勝ち」が絶対的なルールです。これを「先願主義」と呼び、先に出願・登録した者の権利が優先されます。
どれだけ有名な企業であっても、どれだけ巨額の投資をしていても、商標登録においては「時間的優位性」が全てを決するのです。
さらに重要なのは、商標の保護範囲が完全に同一の名前だけでなく、「類似」する範囲まで及ぶことです。
類似性の判断は以下の三要素で総合的に行われます
称呼(読み方)
商標の類似性では、発音が同じか似ているかが重要です。カタカナ「アイホン」とローマ字「iPhone」は、文字こそ異なりますが、読み方が共通しています。
外観(見た目)
文字や図形の形状、配置、全体的な印象が考慮されます。ただし、この場合は称呼の一致が決定的要因となります。
観念(意味合い)
その商標が消費者に与える印象や連想される概念が問題となります。
これら三要素のうち、どれか一つでも類似していれば「紛らわしい」と判断される可能性があります。
「アイホン」と「iPhone」の場合、称呼が共通するため、消費者が混同するおそれがあると判断され、アップルが単独で出願しても審査を通過することはほぼ不可能だったのです。
4. 運命の交差点——アップル日本上陸と”衝突回避”
2008年7月、日本でも初代「iPhone 3G」の発売が決定し、アップルは商標問題の解決を迫られました。日本市場への本格参入を前に、この障壁を乗り越える必要があったのです。
そこでアップルが採用した解決策は、双方に利益をもたらす方法でした。
「商標を持つ者(アイホン)が、新たに『iPhone』を商標登録し、それをアップルにライセンス供与する」というスキームです。これにより、法的な問題を回避しながら、両社にとってメリットのある関係を構築したのです。
独占ライセンス専用に取得したと見られる商標「iPhone」の商標権
(商願2006-086904)
特許庁に対する独占ライセンス権の設定手続の公開記録
特許庁手続 | 日付 |
---|---|
登録査定 | 2008/06/20 |
設定納付書 | 2008/06/20 |
登録証 | 2008/07/15 |
専用使用権設定登録申請書(契約・許諾) | 2008/07/30 |
移転登録済通知書 | 2008/08/29 |
専用使用権変更登録申請書(変更契約) | 2018/06/27 |
移転登録済通知書 | 2018/07/27 |
アイホンにとっては、自社とは全く無関係のスマートフォンブランドが世界的に成功すればするほど、ロイヤリティー収入が増加するという夢のような契約です。
一方、アップルにとっては市場参入の最大の障壁が取り除かれ、日本という重要な市場で事業を展開できるようになりました。
両社は2008年3月に正式に契約を締結したと報じられており、この「ウィン・ウィン」の合意により、現在に至るまで円滑な関係が続いています。
この事例は、知的財産権を巡る争いが必ずしも法廷闘争に発展する必要がなく、創意工夫により双方が利益を享受できることを示した好例といえるでしょう。
5. ライセンス料はいくら?——決算短信が語る”年1億5000万円”
契約の詳細内容は当然ながら両社とも公開していませんが、アイホン株式会社の決算短信を詳しく分析すると、興味深い数字が浮かび上がってきます。
同社の営業外収益には「受取ロイヤリティー」という項目があり、毎期約1億5000万円が継続的に計上されているのです。
商標業界の専門家の間では、「この受取ロイヤリティーの大部分がアップルからの商標ライセンス料である」との見方が有力です。2025年3月期の公表された最新の決算でも同程度の金額が確認でき、この推測の信憑性を高めています。
年間1億5000万円という金額をどう評価すべきでしょうか。
アップルの日本におけるスマートフォン市場シェアは50%を超え、iPhoneの年間販売台数は数千万台に上ります。グローバル企業の視点から見れば「破格に安い」といえるかもしれません。
しかし、アイホン株式会社の立場から見れば、これは文字通り「寝ていても入ってくる不労所得」です。
1955年の商標登録から約70年間、この権利を維持し続けるためのコストは、10年間で5万円程度の更新料のみ。それが今や年間1億5000万円の安定収入を生み出しているのですから、商標が持つ経済的パワーの大きさを端的に示す事例といえるでしょう。
6. 三つの教訓——中小企業こそ「名前の先取り」を
このアイホン対アップルの事例から、私たちは三つの重要な教訓を学ぶことができます。
第一の教訓:ブランドは早期登録が命
市場がまだ存在しない段階で取得した「古い商標」が、時代の変化により巨額の資産に化けることがあります。
アイホンが1955年に商標登録した当時、スマートフォンという概念すら存在しませんでした。それでも先見性を持って名前を保護したことが、半世紀後の大きな果実につながったのです。
現在、AI、メタバース、Web3といった新しい分野が急速に発展しています。これらの分野に関連する名称やブランドを早期に押さえておくことで、将来的に大きな価値を生む可能性があります。
特に中小企業やスタートアップにとって、商標登録は比較的少ない投資で将来のリスクを回避し、機会を創出できる有効な手段なのです。
第二の教訓:ライセンスも立派なビジネスモデル
アイホンの事例が示すように、直接スマートフォンを作らずとも権利を貸し出して収益化することが可能です。特許や著作権と比較して、商標は手続きがシンプルで維持コストも低く、中小企業でも取り組みやすい知的財産権です。
自社が使用していない商標であっても、適切な管理とライセンス戦略により、安定したキャッシュフローを生み出すことができます。
これは特に、資金繰りに課題を抱えがちな中小企業にとって、非常に魅力的なビジネスモデルといえるでしょう。
第三の教訓:交渉カードとしての知財
巨額の資本を持つグローバル企業に対しても、知的財産権は対等な交渉材料になります。
アイホンという中堅企業が、世界最大級の企業であるアップルと対等な立場で交渉し、継続的な利益を得ている事実がそれを証明しています。
知的財産権は、企業規模の差を埋める強力な武器となり得るのです。特に技術力やアイデアに優れた中小企業にとって、適切な知財戦略は競争力の源泉となります。
7. スタートアップ必見!実務チェックリスト
これらの教訓を踏まえ、実際にビジネスを立ち上げる際の実務的なチェックリストをご紹介します。
アイデア段階での事前調査
事業やサービスの名称候補が決まったら、まずJ-PlatPat(特許情報プラットフォーム)で既存の商標登録を検索しましょう。無料で利用でき、類似する商標が既に登録されていないかを確認できます。この段階での確認により、後々の大きなトラブルを回避できます。
名称選定の優先順位
複数の候補がある場合は、読み方(称呼)が既存の商標と被らないものを優先的に選択してください。見た目が異なっていても、読み方が同じであれば類似商標と判断される可能性が高いためです。
出願タイミングの重要性
商標出願はできるだけ早期に行うことが重要です。資金に制約がある場合でも、最も重要な商品・サービス区分だけでも先に出願しておきましょう。後から区分を追加することも可能です。
国際展開への備え
将来的な海外展開を視野に入れているなら、マドリッド協定議定書に基づく国際商標登録(マドプロ)の活用を検討してください。一度の出願で複数国での保護が可能になり、それぞれの国に個別に出願書類を準備する場合に比べて手間を大幅に削減できます。
登録後の管理体制
商標登録後は、®マークの適切な表示や、商標使用ガイドラインの整備を行いましょう。また、将来的なライセンス展開に備えて、契約書の雛形を準備しておくことも重要です。
8. まとめ——「名前を制する者が市場を制す」
アイホン対アップルの事例は、「ネーミング」と「早期商標戦略」がいかに企業価値を押し上げるかを鮮明に示しています。わずか数万円の投資で取得した商標が、数十年後に年間億単位の収益を生み出す。これこそが知的財産の持つ真の力なのです。
現代のビジネス環境では、優れた技術や革新的なアイデアだけでは成功を保証できません。それらを適切に保護し、戦略的に活用する知的財産マネジメントが不可欠です。特に商標は、ブランド価値の向上、模倣品対策、ライセンス収入の創出など、多面的な価値を提供します。
もし皆さんが新しいサービスやブランドを立ち上げるなら、開発作業に着手する前に「名前を守る」ステップを忘れないでください。それは将来、あなたのビジネスを守り、思わぬ形で大きな収益を生む「保険」となるかもしれません。
商標は一度取得すれば、適切に更新を続ける限り半永久的に保護されます。今日の小さな投資が、明日の大きな資産となる可能性を秘めているのです。
「名前を制する者が市場を制す」——この言葉を胸に、戦略的な商標活用を始めてみませんか。
※私のライセンス関連に関するコメントは、週刊新潮2025年5月22日号に掲載されました。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
03-6667-0247