索 引
1. はじめに – 見えない財産が企業価値を決める時代
21世紀に入り、企業の競争力の源泉は工場や設備といった有形資産から、技術やブランド、ノウハウといった無形資産へとシフトしています。
知的財産の評価を手掛ける米オーシャン・トモによると、日本の主要企業の時価総額に占める無形資産の割合は2020年までの10年間で17ポイント高まり32%になっています(日本経済新聞の今日のことばから引用、2022年5月14日報道)。
貴重な知的財産を本当に守れているでしょうか。技術流出、ブランドの無断使用、営業秘密の漏洩など、知的財産をめぐるトラブルは後を絶ちません。その多くが「契約の不備」に起因していることをご存知でしょうか。
2. 契約の本質を理解する – 口約束では守れない大切なもの
契約と聞くと、多くの方は「面倒な手続き」「形式的な書類」といったイメージを持たれるかもしれません。契約の本質は「約束を確実なものにする」ことにあります。
法的には、契約は当事者間の合意があれば成立します。居酒屋での口約束も、メールでのやり取りも、理論上は契約として成立し得ます。
民法第91条では「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」と定められており、当事者の意思が尊重される仕組みになっています。
ただし、契約の自由には限界があります。公序良俗に反する内容や、実現不可能な約束は、いくら合意があっても法的効力を持ちません。
例えば、「永遠に秘密を守る」という約束は、人の寿命を考えれば実現不可能ですし、「違法行為への協力」は公序良俗に反するため無効となります。
3. なぜ契約書が必要なのか – トラブルを防ぐ最強の盾
「信頼関係があるから契約書はいらない」という考えは、ビジネスにおいて最も危険な思い込みの一つです。実際、知的財産をめぐるトラブルの多くは、親しい関係にあった企業間で発生しています。
契約書の重要性は主に2つの側面から説明できます。
契約書は認識のズレを補正する
第一に、契約書は「認識のズレを防ぐ」役割を果たします。例えば、共同開発において「成果物の権利は共有する」と口頭で合意したとしても、一方は「50%ずつ」と理解し、もう一方は「貢献度に応じて」と理解しているかもしれません。このような認識の相違は、プロジェクトが成功すればするほど深刻な対立を生みます。
契約書は法的救済の鍵になる
第二に、契約書は「法的救済を受けるための証拠」となります。万が一、相手方が約束を守らなかった場合、裁判所に救済を求めることになりますが、口約束では立証が極めて困難です。一方、適切に作成された契約書があれば、その内容通りの合意があったものと推定され、迅速な解決が期待できます。
4. 知的財産の特殊性 – 形のない財産を守る難しさ
知的財産基本法第2条第1項では、知的財産を「発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの」などと定義しています。これらに共通するのは「無体物」であるという点です。
土地や建物のような有形資産であれば、フェンスを立てたり、鍵をかけたりすることで物理的に守ることができます。しかし、アイデアや技術、ブランドイメージといった知的財産は、いったん外部に漏れてしまえば、取り返しがつきません。コピーも容易で、瞬時に世界中に拡散してしまう可能性があります。
知的財産を守るためには「法的な保護」と「契約による管理」の両輪が不可欠なのです。
5. 特許権を例に見る契約の重要性 – イノベーションを守る実践的アプローチ
現代のイノベーションは、単独の企業や研究者によってではなく、複数の主体の協働によって生まれることが一般的です。特許権を例に、知的財産を守るための契約の実践を見てみましょう。
秘密保持契約(NDA)- すべての始まり
共同開発の検討段階では、お互いの技術力や開発構想を確認する必要があります。しかし、この段階で重要な情報が漏れてしまえば、相手に技術を盗まれたり、競合他社に情報が流れたりするリスクがあります。
そこで最初に締結するのが秘密保持契約(NDA)です。これにより、開示された情報の使用目的を限定し、第三者への開示を禁止し、違反した場合の損害賠償責任を明確にします。実は、この段階での契約不備が、後々大きなトラブルの原因となることが少なくありません。
共同開発契約 – 成功への道筋を描く
本格的な共同開発に入る際には、より詳細な取り決めが必要です。共同開発契約では、以下のような重要事項を定めます。
まず、各当事者の役割分担と責任範囲を明確にします。「A社は基礎技術の開発を担当し、B社は製品化技術を担当する」といった具合に、曖昧さを排除することが重要です。
次に、成果物の帰属について定めます。共同開発の成果を「共有」とするのか、「各自の開発部分は各自に帰属」とするのか、あるいは「すべてA社に帰属し、B社にはライセンスを付与」とするのか、ビジネス戦略に応じて慎重に検討する必要があります。
さらに、費用負担、スケジュール、中止・解約の条件なども明記します。特に、プロジェクトが失敗した場合の処理について事前に合意しておくことは、リスク管理の観点から極めて重要です。
共同出願契約 – 権利化への最終関門
開発が成功し、特許出願を行う段階では、共同出願契約が必要となります。特許法では、共同発明者全員が出願人とならなければ、適法な出願とはなりません。しかし、出願後の権利の持分、出願・維持費用の負担、実施や譲渡の条件など、決めるべきことは山積みです。
特に注意すべきは、特許法第73条の規定です。共有特許については、各共有者は原則として自由に実施できますが、第三者へのライセンスや持分の譲渡には他の共有者の同意が必要です。この点を理解せずに共有特許としてしまい、後でビジネス展開に支障を来すケースが少なくありません。
ライセンス契約 – 知的財産を収益化する
特許権を取得した後は、自社実施だけでなく、他社へのライセンスによって収益を上げることも可能です。ライセンス契約では、実施許諾の範囲(独占的か非独占的か、地域限定か、期間限定か)、ロイヤリティの算定方法、改良発明の取扱い、品質管理、契約違反時の措置などを定めます。
適切なライセンス契約は、技術を広く普及させながら、開発投資を回収する有効な手段となります。
6. 契約力が企業の未来を決める – 今こそ知的財産戦略の見直しを
現代のビジネス環境において、優れた技術やアイデアを持っているだけでは十分ではありません。それらを適切に保護し、活用するための「契約力」こそが、企業の持続的成長を左右する重要な要素となっています。
契約は単なる形式的な手続きではなく、知的財産という見えない財産を見える形で管理し、保護するための強力なツールです。口約束や曖昧な取り決めに頼ることなく、しっかりとした契約書を作成することで、貴重な知的財産を確実に守ることができます。
特に、オープンイノベーションが進む現代においては、社外との協業機会が増える一方で、知的財産の流出リスクも高まっています。今こそ、自社の契約管理体制を見直し、知的財産を守るための「契約力」を強化する時ではないでしょうか。
知的財産は、適切に保護され、活用されてこそ、その真価を発揮します。契約という法的ツールを賢く使いこなすことで、イノベーションの成果を確実に自社の競争力につなげていきましょう。それが、知識経済時代を生き抜く企業の必須条件なのです。
ファーイースト国際特許事務所弁護士・弁理士 都築 健太郎
03-6667-0247