索 引
1. はじめに — 「本来は追加費用なしで取得できたはずの権利」が抜け落ちている現実
以前、このブログで、調理用具の商標権において、同じ区分内で追加費用なしで取得できるはずの「なべ・やかん」の権利が含まれていないケースが、2020年前後から増加傾向にあることをお伝えしました。
商標実務を知らない方が自力で出願した場合に起こりやすい、典型的な抜け漏れパターンそのままの商標権が、数多く存在していたのです。
ここまで顕著に「抜けやすいところだけが抜けている」という状況を見ると、次の疑問が浮かびます。
食器の商標権を取得するときに、同じ区分で追加費用なしに指定できる「なべ・やかん」の権利も、きちんと含まれているのでしょうか。
商標実務に携わる者の感覚からすれば、「当然セットで取得しておくべき」という権利です。
実際のデータを調べてみると、予想どおりというべきか、考えさせられる結果が見えてきました。
この記事では、なぜ追加費用なしで指定できる「なべ・やかん」の権利が、食器の商標権から外れてしまっているのか、データと実務の現場感覚から解説します。
2. 追加費用なしで指定できる「なべ・やかん」の権利を、なぜ外してしまうのか
(A)権利申請漏れの多さに、言葉を失うほどの現状
商標の料金体系について確認しておきましょう。
商標は「区分」ごとに特許庁への料金が決まっており、同じ区分の中であれば、何品目を指定しても料金は変わりません。
その区分で「食器」を1品目だけ指定した場合も、「食器・なべ・やかん」とセットで指定した場合も、特許庁に支払う印紙代は同額です。
大規模ホームセンターの売り場を思い浮かべてみてください。実際の店舗では、食器売り場と鍋・やかん売り場は別のコーナーに分かれていることが多いでしょう。
その感覚のまま、「食器の商標権がほしい」という依頼を受けて、食器コーナーにだけ案内して終わってしまうような願書の作り方が、実際に多く行われているように見受けられます。
商標の世界では事情が異なります。
ホームセンターでは、食器と鍋・やかんを一緒に購入すれば、当然その分の代金がかかります。一方、商標登録では、同じ区分の範囲であれば、食器に鍋・やかんを追加しても追加料金はゼロです。
にもかかわらず、あえて「食器だけ」で願書を提出してしまうケースが、非常に多く存在します。
そして、より深刻な問題はここからです。
「出願後に気づいても、追加は認められない」という厳格なルール
もし、出願後に「実は食器だけでなく、鍋・やかんにもブランドを使う予定だった」と気づいたとしましょう。残念ながら、特許庁では「願書に最初に記載していなかった商品を、後から追加する」ことは一切認められていません。
その結果、どうなるか。すでに「食器」で出願済みで、本当は「なべ・やかん」も必要だったが、願書には記載していない。
この場合、「なべ・やかん」についてはまったく権利がない状態になります。
不足分を取り戻すには、改めて「なべ・やかん」用に新規出願し直し、最初に食器で出願したときと同じ区分分の費用をもう一度支払う必要があります。
実質的に「倍額コース」に進まざるを得ません。
さらに危険なのは、あなたが「鍋・やかんも必要だった」と気づく前に、他の人が同じ商標で「鍋・やかん」を先に出願してしまう可能性があることです。
この場合、感覚としては「本来、自社の権利だったはずの部分を奪われた」と感じるかもしれませんが、商標法のルールは逆です。
商標の世界では、最初に使用した人ではなく、最初に特許庁に権利を申請した人が正当な商標権者になります。
そのため、あなたが食器だけを指定して商標登録し、別の人が同じ商標を「鍋・やかん」に対して後から出願・登録した場合、「鍋・やかん」についてはあなたが権利侵害者、相手が権利者という構図になります。
「自社のブランドなのに、こちらが侵害扱いになる」という、権利申請漏れ一つで現実に起きてしまう理不尽な状況です。
(B)2010年から2024年までのデータが示す「専門家不在」の願書作成
では、「食器は含まれているが、なべ・やかんが抜け落ちている商標」は、どれくらい存在するのでしょうか。
2010年から2024年までの各年度について、「食器」を権利範囲に含むものの、追加費用なしで指定できるはずの「なべ・やかん」が含まれていない商標権を調査し、グラフ化したものが次の図です。
図1:追加費用なしで指定できる「なべ・やかん」の権利が、食器の商標権に入っていない件数の推移
2019年以降の数値に注目してください。
- 2019年:550件
- 2020年:710件
- 2021年:876件
- 2022年:1039件
- 2023年:697件
- 2024年:763件
2020年を境に、明らかに増加傾向が見られます。
この数字が示すのは非常にシンプルです。「食器」と願書に記載したときに、同じ区分でどこまで権利を広げられるか、真剣に検討されていないということです。
通常、専門家が商標登録を扱う場合は、願書を作成する前、作成した後、特許庁に提出する前、提出した後という各タイミングで、「この権利範囲で本当に足りているか」を何度も見直します。
一度申請漏れを経験すれば、次回以降は同じミスを避けるため、年度ごとに申請漏れ件数が増え続けることは通常起こりにくいはずです。
ところが現実のグラフは、「誰もフィードバックも検証もしていない」と言わざるを得ない推移を示しています。
願書は十分な検討なしに作成され、ほとんどチェックされないまま特許庁に提出され、そのまま商標権として成立しているという構図が、数字から読み取れるのです。
専門家としてこのグラフを見ると、正直、かなり衝撃を受けます。
3. 権利申請漏れが起きると、誰が得をするのか
(A)申請漏れを取り戻すには、一区分分の費用を再度支払う必要がある
図1のように、「食器は権利範囲に入っているが、同じ区分で追加費用なしに指定できるはずの鍋・やかんが漏れている」という商標権の場合、将来になってから「やはり鍋・やかんにも同じブランドを使いたい」となった瞬間、費用負担が一気に増加します。
なぜなら、食器のときと同じ区分で、もう一度新規出願し直すしかないからです。
「最初から一緒に取得していれば、追加費用ゼロで済んだはずの権利のために、後から一区分分の費用をもう一度支払う」という残念な構図が生まれます。
では、この構図で最も得をするのは誰でしょうか。
依頼者(商標権者)ではありません。特許庁でもありません。
最も得をするのは、「依頼された内容だけを機械的に出願する手続き代行業者」です。
「依頼されたことだけを処理する」スタイルがなぜ収益性が高いのか
想像してみてください。依頼者から「食器について商標を取りたい」と言われたとします。
そこで、本当に必要な範囲をヒアリングして、追加費用なしで広げられる権利範囲を検討して、将来必要になりそうなアイテムも洗い出すという丁寧な対応をすれば、当然時間がかかります。
一方で、「食器ですね。では食器の権利を取りましょう」と、依頼されたままを機械的に記入して出願すればどうでしょうか。
調査も簡単、願書作成も簡単、調整もほとんど不要。まさに短時間で終わる「形式的な処理」方式です。
手続き代行業者の立場からすると、一件一件に時間をかけてもかけなくても、基本的にもらえる手数料は同じであることが多いです。
そうであれば、「一件に時間をかけるよりも、短時間で処理できる案件を大量にこなした方が収益性が高い」というインセンティブが働きます。
さらに言えば、権利範囲を広げれば広げるほど他人の先行商標とぶつかるリスクが増え、権利範囲を狭く絞れば絞るほど調査も調整も審査も容易になります。
結果として、「最初から狭くピンポイントで出願しておけば、審査は通りやすいし、手間も少ない」という、業者側には都合の良い状態になります。
依頼者は、「こんなに簡単に登録できるのですか」と驚き、業者側は「一発で審査に通しましたよ」という「成果」をアピールできます。
しかしその裏側で、本来追加費用なしで取得できたはずの「なべ・やかん」の権利や、将来ビジネスで必要になる可能性のある周辺商品といったものが、誰にもチェックされないまま、権利の穴として放置されているのです。
そして、数年後。「鍋ややかんにもブランドを広げたい」と依頼者が気づいたとき、同じ業者に再び依頼が舞い込み、「新しい区分の出願ですね。前と同じくらいの費用がかかります」と、2回目の手数料を受け取ることができます。
依頼者は、「最初から一緒に取得していれば追加費用なしだった」という事実を知らされていませんから、疑問を持ちようもありません。
こうして、一人ひとりへの説明は最小限、願書作成は高速回転、出願件数だけはどんどん増えるという、業者にとって収益性の高いビジネスモデルが成り立ちます。あくまで、「依頼者が事実に気づくまでは」ですが。
4. 申請漏れがある願書は、専門家が関与していないシグナル
(A)専門家なら、権利漏れは一目で分かる
商標登録の専門家(弁理士)は、商標法と類似商品・役務審査基準を熟知しています。そのため、他人の作った願書を見るだけで、「この指定のしかたでは、ここの権利範囲が抜けている」という穴が、すぐに分かります。
さらに、専門家なら誰でも知っている大前提があります。
「一度願書を提出してしまったら、そこに記載していない商品は後から追加できない。」これは商標実務の基本原則です。
商標権は、土地の権利と同様に売買の対象になります。人気作品名の商標などであれば、数千万円、場合によっては数億円が動く世界です。
そのような商標権に、「実は最初から権利取得漏れがありました」となれば、場合によっては、故意または過失によるミスとして損害賠償請求の対象になることも十分あり得ます。
だからこそ、専門家は願書作成前に、願書作成後に、特許庁提出前に、何度も内容を見直し、「これで本当に守りたい範囲をカバーできているか」を確認します。
ところが、図1のグラフが示すのは、そのような見直しがあったのだろうか、と疑問に思うレベルです。
「大量処理モデル」で考えると、すべて整合性が取れてしまう
この状況をどう説明するか。
一つの仮説として、願書を実際に作成しているのが、「内容を理解していない多数の事務スタッフ」だと仮定すると、図1のグラフは整合性を持って説明できます。
依頼者から伝えられた言葉を、深く意味を理解しないままひな型に当てはめて、そのまま誰もチェックせずに機械的に特許庁へ提出する。
このような運用であれば、「食器」と言われたら「食器」だけ書く。その指定によって本来どこまで権利が広がるかは考えない。追加費用なしで指定できる「なべ・やかん」など、そもそも発想にない。という状態になっても不思議ではありません。
そして、その願書を専門家が最後まで確認していないとすれば、申請漏れがあっても誰も気づかない。フィードバックも改善も起きない。その結果、図1のように申請漏れの件数が年々積み上がるという現象が、実務レベルで起きてしまいます。
もちろん、すべての業者がそうだと言いたいわけではありません。
図1に現れている数の多さと、実務の現場感覚を合わせて考えると、「専門家が責任を持ってチェックしていない願書が、相当数存在する」と考えざるを得ないのが正直なところです。
5. まとめ — あなたの商標を「1回で守り切る」ための視点
最後に、最も重要なポイントを整理します。
一度願書を特許庁に提出してしまうと、その願書に記載していない商品・役務は、後から追加できません
後から、「なべ・やかんも必要だった」「あの商品カテゴリーにも広げたくなった」と気づいても、最初の商標登録のときに権利漏れを起こした部分の権利が、自動で戻ってくることはありません。
そのときにできるのは、もう一度新しい出願をする、もう一度区分分の費用を支払うという、やり直しの道だけです。
「依頼されたことだけを処理する」業者は、商標の世界では「最低限の対応」
サービス業の経験がある方ならイメージしやすいと思いますが、「依頼者から言われたことだけを淡々と処理する」というスタイルは、単位時間あたりの売上を伸ばすには、ある意味で合理的です。
商標の世界でも同様で、依頼者の将来計画を深掘りしない、追加費用なしで広げられる権利範囲も調べない、提案もせず依頼されたとおりだけ出願する。こうして1件あたりの手間を減らせば、同じ時間で処理できる出願件数は増えます。
しかし、その「効率の良さ」は、依頼者が本来取得できたはずの権利を取りこぼしているという損失の上に成り立っていることが少なくありません。
しかも、多くの依頼者は「登録証が届いた時点で、商標に関する手続きは終わった」と思い込んでしまい、その内容を改めて検証することはほとんどありません。
「依頼されたことだけを処理する出願代行」というビジネスモデルは、依頼者が事実に気づくまで、続いてしまうのです。
今日からできる、たった一つの自衛策
商標権を取得するときに、ぜひ覚えておいていただきたいのは、次の視点です。
希望するアイテムだけでなく、同じ区分で「追加料金なし」で一緒に取れる範囲がないか、必ず確認すること。
もし、「食器を取得するときに、なべ・やかんも追加費用なしで一緒に取れる」「将来、鍋ややかんにも展開する可能性がある」のであれば、最初の1回でまとめて権利を取得しておくのが有利です。
権利取得漏れがある商標権は、その抜けた部分を他人に取られた瞬間に、あなたのビジネス防御に穴が空く状態になります。
その穴を後から塞ぐには、余計なコストと、場合によっては法的リスクまで背負うことになりかねません。
6. 最後に — 図1の「1点」にならないために
図1のグラフに専門家の視点で向き合うと、「ここに映っている1点1点の背後には、それぞれの事業者のブランド戦略と、将来のビジネスがある」ということを痛感します。
どうかあなたの商標が、「追加費用なしで指定できたはずのなべ・やかんを落としてしまった1点」にならないようにしてください。
そのためにできる、最もシンプルで確実な方法は、出願前に一度は弁理士本人と直接話すことです。
何に使う予定なのか、将来どこまで広げたいのか、同じ区分で追加費用なしに取れる範囲はどこまでか。
こういった話を、事前にきちんと相談したうえで出願するかどうかで、5年後・10年後のビジネスの守りやすさは、まったく違うものになります。
「食器だけ取ればいいですよね」と聞かれて、「はい、では食器だけで出しておきますね」で終わるのか。
それとも、「食器をお考えということは、なべ・やかんも将来的に展開される可能性はありませんか。同じ区分なら、今一緒に取得しても追加費用はかかりませんよ」と一言添えてくれる専門家に出会えるか。
その違いが、あなたの商標権の将来に影響を与えます。
この記事が、あなたのブランドを「1回で、無駄なく、賢く」守るためのきっかけになれば幸いです。
ファーイースト国際特許事務所
所長弁理士 平野 泰弘
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